あっぽるのーつ

カップ麺を待つ際のおともにどうぞ。

【ICO】最小限の要素で最大限の情動をもたらしてくれる最高のゲーム

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ICOが好きだ。

10年経ってもICOのことはきっと、忘れないと思う。
それぐらい好きで強く心に残った作品だと、そう断言できる。

一ヶ月ほど前、YouTubeICOのゆっくり実況動画を投稿した。
とは言え、もともとそれはニコニコに投稿したものであり、要はサルベージ(アーカイブとも言う)的な扱いで。
改めてプレイし直したとかではない。

「ああ、そういえばこんな感じでICOをプレイしてたっけなあ」とか思いながらエンコード作業をして、それを改めて見返していた。
プレイしたのも編集したのも1年以上前なのに、当時の記憶がありありと思い出せる。
それは別に私の記憶力が良いからとかそういうことじゃなく、それだけICOというゲームが衝撃的だったからだろう。

この記事も当時、感想記として残したものだが、また改めてリライトしてみた。
そんなわけで、以下に続くのはあるICO好きの感想である。
・・・・・・やっぱ上田文人さんってすげえわ(感想先出し)。

秀逸なキャッチコピー

「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」なんていうキャッチコピー、あるいは文章はこれまでに何度か目にしたことがあった。

MOTHERの「エンディングまで泣くんじゃない」だとか、戦場のヴァルキュリアの「また明日、君に会うために僕は命をかける」と同じように、それだけで心が強く惹きつけられる文字列だとずっと思っていた。

ICOの立場

さて、本作への興味は前から(HD版が発売されたぐらいから)あったものの、どうもやる機会を逃してしまっていたような気がする。

振り返ると、ICOの発売は2001年。
同年発売のゲームはFF10MGS2の他、未だ名作と語り継がれるような作品が多く発売されたわけで、その中で言うと、どうしてもICOの存在感は薄くなりがちだった。

もちろんそれでもICOに目を付け、購入したプレイヤーは当時でもそれなりの数がいたことだろう。
しかし、私は当時それの存在すら知らなかった。
というかその時はPS2を持ってすらいなかった。
本体を購入したのはもうちょっと後で、そして別の話。

さて、ICO発売から数年が経ち、気が付けばHD版の発売が決定。
それはつつがなく進み、そして2011年、生まれ変わった新たなICOが業界にて産声を上げた。

HD版の登場は、PS2版が発売されてから実に10年。
そんな昔のゲームがリマスターされるって、生半可な人気じゃ不可能なわけで。

ICOというゲームがそれほどの人気を持つゲームだと当時の私は知らなかった。
まあ、今となっちゃ理解しているけれど。

出会い

ある時、姉から1本のゲームソフトが渡された。
それがPS2版のICOだったわけで、さて何故そんなことをしたかと言えば「ストーリーが知りたいけど自分じゃできないから代わりに進めてくれ」という理由が彼女にあったからだった。

幸運にも私の手にやってきたICO
当時はICOを名前だけ知っていて、そして何の前触れもなく気になってたゲームが手に入ってウキウキだったのは言うまでもない。

が、その期待は裏切られる。

なんだこの面白みのないゲームは

GBAを買ってもらったときぐらいの期待を胸にさっそく起動。
その時は、まるで私の周囲に「ワクワク」というポップなテキストが出ているんじゃないかと言えるほど楽しみで仕方がなかった。

しかし、やってみてだいたい1時間ほどが経過したころ、私の心境に変化が訪れる。
ステージで言えば墓地に到着した辺りだったか。

全く面白くない。
というか、はっきり言ってつまらない。

まず、本編中にストーリー説明がないから、誰がどこで何をどうするのか、また、それはなぜなのかがずっと腑に落ちないままで、それが非常に不快。

目の前に道があるからとりあえず進んでみるか、程度の意欲しかなく、ふと「なんでこんなことしてんだろう」という思いが頭をよぎる。
さながらオ○ニー中にタスクを思い出してしまう感覚。
あれ萎えるよね(ダブルミーニング)。

そして何よりも「地味」。これが一番の問題点だった。

当時の私は「ゲームと言えば血と爆発だよね!☆」なんて真剣に考えてたクレイジークライムボーイだったので、ともすればICOの作風は地味すぎて辛かった。

かろうじて戦闘要素はあるものの、爽快感は無いしもっさりしてるし硬直は長いしで、ゲームにおける戦闘がつまらないと感じた初めての瞬間だった(比較対象はDMC4とかゴッドハンド)。
しかも武器が木の棒。今日日ドラクエの主人公でももうちょいまともな装備で始まるぞオイ。

他にも様々な要因があったが、結果的に序盤も序盤で進む気力がなくなり、プレイ断念。
姉からも「これ面白くねえな」との一言があったのでそこでICOというゲームは「微妙」の烙印を押され、押入れの奥へ消えていきましたとさ。合掌。

HD版をやれば多少は変わったのだろうかと思わないこともない。
PS3のゲームに慣れ始めた当時からすると、あのグラフィックの面でもちょっと抵抗があった。
D端子接続なら多少はマシだったのかもしれない。多少は。

あの面白さは子どもにはわからないと思う

今でこそ「大好きだ」と胸を張って言えるが、では、なぜあの時はそう思えなかったのだろうかという疑問。

おそらく、それまでにやってきたゲームのほとんどが「派手」で「大味」で「直接的」なものばかりだったからなのではないかと思う。

あれから時がたち、いろんなゲームをやってきた。
そして、ゲームだけでなく様々な表現媒体の作品に触れ、いろんな形、手法の物語を体験してきた。

その多大なる経験を経て、もう一度ICOをプレイした時、あの頃に抱いた感情とは全く持って違う印象が生まれ、それを静かに感じた。

畢竟、当時は子どもだったんじゃないかと。

何が何でも答えを探し、明確な説明や解説を要求し、舗装された道路よろしくきちんとキャラもストーリーも何もかもが描写されていないと我慢できない。

目に見えるものこそが全てであり、キャラは「セリフ」という「物語を動かす文字列」を発するだけの存在・・・・・・などなど思考の次元が低い、あるいは幼かったからICOに対する姿勢がズレていた。
こういった作品の味わい方を知らなかった。

だから、ICOを全く楽しめなかったんじゃないかと、そう思う。

が、決して「ICOを楽しめない奴はガキ」なんていう暴論を提唱するわけではなくて。
あくまで、当時の自分を振り返ると「そういうこと」だったんだろうなあと思い出に浸るだけ。

本作の様な、いわゆる「雰囲気ゲー」はかなり人を選ぶ。
合わない人は致命的に合わないし、その逆もまた然り。
結局は人それぞれの感性次第。
数年前の私よ、経験が足らんぞ経験が。

多くを語らない

ICOは多くを語らない。

それは物語自体もそうだし、登場するキャラも同じく。
まず、そもそも登場人物の数が少ないうえに口数が少ないと来たものだから、必然的にプレイヤーはある程度の予測や妄想を胸にゲームを進めるしかない。

イコという少年の出生から始まり、ヨルダの心中、果てはエンディングまで。
むしろ明確な説明があったことの方が少ないとすら言える。

しかし、それでいいし、それがいい。

おおまかなストーリーは説明書を見れば分かるし、深く考えず「ふーん、そう」程度の理解で大丈夫。
あとはもうプレイヤー自身にゆだねられ、それで問題がない。

概してこの手の作品は「手抜き」と評されることが少なくない。
製作者がめんどうになったから、各自好きに考えてくださいというそれっぽい理由つきの放置だと糾弾されることがある。
しかし、本作に限っては違うと断言できる。その批判は違うよと。

最低限の要素

本作は全体的に「静謐」という言葉がよく似合う。
あるいは「静寂」と言ってもいい。

プレイ中は視覚刺激や聴覚刺激の少なさが目立つ。
簡単に言えば、めっちゃ静かなのだ。

プレイ中、イコがヨルダの手を引いて走っているという光景をよく目にする。
無人の城をただ静かに巡る、そこに派手さなどは微塵もない。
体力やステータスを示すUIも無ければ、けたたましいSEも、盛り上げるいかにもなBGMも、殆ど無い。

この静かさの理由とは、世界観を壊さないようにしているんじゃないかと思う。
意図的に多くを語らないようにしている、物語そのものを踏襲しているのではないかと。

余白や行間は何も目に見えるものではなく、不可視でさえ確かに存在する。
そして空白があるがゆえに味わいがあり、そしてまた、空白が「無い」のではなく、空白が「在る」ことを本作で演出している。

引き算のデザイン

このゲームに存在する不思議な雰囲気。
それを構成する「静」の要素は見事としか言いようのないバランスで保たれている。
余分に、過多にあってはならない。
すべてが必要な分だけで成されている結果として、本作独自の幻想的な雰囲気が生まれているのだろう。

多くを語らないのはそのバランスを崩してしまうから。

ゲームの概要? そんなものは説明書だけで事足りる。
△ボタンでジャンプ! なんていうチュートリアルが出てきたら本作の雰囲気はブチ壊しなのだ。

最低限のものだけを用意し、そこから更に限界まで引いていく。
そして残ったものこそが無くてはならないものであり、本当に大切なものなのだ。

すべてを無くして見つけるのは、本当に大切なもの。

ミニマリズムに通じる部分はICOの特徴で、私が好きな部分でもある。

世界観を構成する要素

「世界」という現実を構成する重要な要素は2つの刺激にある。

ゲームで言えばグラフィックやUI、カメラワークなどの見て判断できるものと、BGMやSEなど、聞いて判断できるもの。

要は、視覚刺激と聴覚刺激の組み合わせでようやく1つの世界が成立するのだ。
これも配分や組み合わせを間違えると世界観が一瞬で瓦解してしまうので、手は抜けないポイント。

さて、本作にはBGMがほとんど存在しない。
実はサントラに収録されているのはわずか16曲。
本編にて部分的に流れはするものの、プレイ中の大半で耳にするのは人工的なメロディのBGMではなく、環境音(自然音)。
これがまたいい味を出している。

前述したとおり、本作の雰囲気はまさしく「静」だ。
無人の城はどこか不思議で、不気味で、静寂に包まれている。

しかし、ここで静かな感じの曲を流してしまうとそれだけで「無人の城」のイメージは瞬く間に無くなってしまうのだ。

人工的な音

音の組み合わせというのは人工的なものだ。
自然界に存在するドレミの音階が偶然1つの曲を成すことはまずありえない。

つまり、曲自体が「人の手が介在する存在」なのだ。
人の手でイメージを連想させるのは、この場合自然ではない。

そこで使われたのが環境音。
これなら人工的ではなく、なおかつ自然を連想できる。
燭台が燃える音、水が滴る音、歩いた際の反響・・・・・・どれも、ただ「在る」音だ。

余談、プレイ中なんとなく、城内にいて落ち着くのは環境音が持つゆらぎの効果もあるのだろう。
そして、環境音には胎内回帰の効果もあると言われている。

これを城の構造と上手く照らし合わせると、よく考えられているなあと、思わず舌を巻いてしまう。
本当によく出来ている。

言葉なんて必要ねえんだ

本作はイコとヨルダの「言葉が通じない関係」をメインに展開されている。

日常生活において私たちは意思の疎通を「言葉」「表情」「声音」「動作」で行っている。

伝えたいことを共通の言葉にパッケージ化し。
微妙なニュアンスを表情から読み取り。
テンポやピッチの変化で更に意味を付け加え。
動きを持って表現する。

何よりの前提として、共通の言葉というのは意思の疎通(コミュニケーション)の上では外せない最も重要なファクターと言える。
言葉が無くともコミュニケーションはできるが、不自由なのは明らかだろう。

しかし、彼らはどうか。

初めて会った時から最後の再会の時まで、お互いはそれぞれの言葉を理解していなかった。
プレイヤーはイコとして物語をなぞる身とすれば、重要なシーンでこそ「なんて言ってんだよ!」ともどかしさに襲われたはずだ。しかし。

ただ、言葉が通じないからといって何か進行不可になるような問題はあっただろうか。

ヨルダとイコが共通の言語をもって会話をしたことはない。
伝わらないとわかっているうえで話しかけただけ。
何言ってるのかよくわからん、意思疎通が明瞭にいかない謎の存在同士。

しかしそれでも、彼らの中には確かに信頼とも言える感情が存在していた。

恐ろしい存在が迫ってくる中で、どうでもいい存在を守ろうと必死に戦えるだろうか。
落ちたら間違いなく死ぬであろう高所で、他人に命を預けられるだろうか。

これらの行動は紛れもない「信頼」と呼べるものから来ているはずだ。
しかし、信頼という感情が他者に対して芽生えることはかなり難しい。

あなたは日常の中に「命を預けられるような相手」「全てを信用できる相手」は存在するだろうか。
その感情の確立が難しいのは確かで、相手と意思の疎通ができないならなおさら。

では、どうして彼らはお互いをそこまで信じられたのか。
ここに、製作者が込めたメッセージがあると思う。

言葉がなくとも、伝わることはある。

前述したとおり、意思の疎通に必要なファクターは複数ある。
しかし、人間の意思や感情というものはいつだって不定で、無形。
最初の印象が悪かった私がこうして今やICOを好きになったように、1時間後1分後1秒後に感情がどう揺れ動くかは誰にもわからない。
自分にだってわかりはしない。
だから、行動や感情が多少定義から外れることだって十分にあり得る。

人間は機械ではない。
誰かの思うようにいかないし、たまには道理から外れることもあるからこそ人間と言える。
言葉が通じないからお互いを理解できない、ということは「絶対」では無い。

さらにはイコの献身性もあるだろう。
よくわからん少女相手でも彼はいつだって体を張って行動していた。
それがヨルダの心を惹き寄せたというのは、至極当然のことではないだろうか。

言葉が通じなくても、何かを察することはできるはず。
そしてその経験を、プレイヤーは身をもって実感している。

最後にヨルダはイコの手を離した。
あれは決してあきらめたわけではなく、おそらく、石化の呪いからイコを守ろうとしたのだ。
その時に発した言葉。
そして、力尽きたイコを船に乗せ、送り出したときの言葉。
これらは初見でも、何を言わんとしたかが伝わったのではないだろうか。

エンディングで流れた涙

ヨルダママを倒し、気を失うイコ。
彼を抱え、船に乗せ、送るヨルダ。
その途中でかかる名曲『You were there』。

おそらく真に泣くべきポイントは最後の砂浜だと思うが、私は曲がかかったと同時にウルウルしてきて、ヨルダが何かを言った辺りで涙腺が崩壊した。

もちろん1周目は何を言っているかわからないものの、前述したとおり、わからないけれど伝わった。

どうしてこうも寂しさを残す別れの瞬間というものは心にダメージを与えるのか。
いい年こいた大人がゲームでボロ泣きする姿がそこにはあった。というか私だった。

不思議なことに「具体的にどこが泣けたのか」と言われても特に説明できないのが実情。
なぜ泣いたのか自分でもよくわからない。

砂浜に行く前までは「ヨルダともう会えない」「城が崩れる=思い出が無くなる」「単純に曲の雰囲気が心を刺激する」とまあ様々な感情が胸の中でぐるぐるとしていたのだが、明確に「これだ!」と言える要因は分からないまま。

砂浜で再会したときはなんというか、それ以上にいろいろと混ざりすぎてもはやよくわからなかった。
涙の理由を知ってるか? 俺にはわからないが。

はっきり言って、中盤辺りはバッドエンドだと思いながらプレイしていた。
イコとヨルダのどちらかが死ぬ。
そんな予想を立てながら進めて、そしてたどり着いたのがあのエンディング。

涙が止まらなかった。

何の感情に由来する涙なのかはわからなかったが、とりあえずすげえ泣いた。
ちょうどかかってきた電話に出て、相手に深刻な心配をされたレベルで泣いた。
「・・・・・・(お前)大丈夫か?」
「・・・・・・(ヨルダは)大丈夫だった」

これ以上はいらない

データには記載されていないが、迷っているうちにあえなく強制終了になったのも含めると、クリアに要したのはおそらく7時間ほど。
最近のゲームはもちろん、昔のゲームと比べても短い時間じゃないかと思う。

昨今、クリアまでに何十時間とかかるゲームは珍しくもなんともない。
「どうにかしてクリアまで長くしたろ!」という気概を感じさせるものが少なくない。
その意気や良し。でも。

そういうの、結構辛い。

昔はそれこそ、単体で半年遊べるようなボリュームのゲームが好きだったし、やるのは辛くもなんともなかった。
しかし、最近・・・・・・というよりはここ数年でそういうのが辛く思えるようになってしまった。
はっきり言って今はゲーム体力みたいなものがほとんどない。

昔に比べて固まった時間をとることが難しくなり、進行を数日放置することもある。
そうなると、メインストーリーの流れはともかくとして、細かい描写や伏線などが部分的に頭から抜け落ちてしまう。
これが本当に面倒。というか不満。だからメモを愛用してるんですが。

ゲームボリュームがあればあるほど、メインストーリーが長ければ長いほど、濃厚な体験ができるのは言わずもがな。
しかし、それを楽しむ体力と余裕がない。さてどうしたものか。

そんな折に彗星がごとく現れたICO。一陣の風のように過ぎ去ったこの物語は、その短さに反してかけがえのない体験を残していってくれた。

あまりに短すぎる作品が終わりを迎えた時「え? 終わったの?」と思われてしまうことが多々ある。
しかし、それは作品のまとまりが上手くつかなかったゆえの結果であり、綺麗に完結させれば満足感と共に大団円を迎えられる(はず)。

長さはさして重要じゃない。

本作はまさしくそういう作品だった。
冗長ではなく、意味不明な展開もなく、最後にちゃんと着地した。
これで終わりだ。もうこれ以上はいらない。きっぱりさっぱりすっぱり。

「人気が出たなら続編を出そう」

私はこの考えについて部分的に賛成、反対の人間だ。
延命とも言えるシリーズ商法及び完全版商法はリスクが伴う。
場合によっては「単に引き伸ばしただけ」、「シリーズ人気におんぶにだっこで中身がスカスカ」と判断されてしまうこともありえる。

綺麗なままでいさせてやればいいのにと思うことがある。

1作で綺麗にまとまったのに続編を出す、というのはだいたい失敗する例が多くあるように思える。
ゲームで言えばDODやFF7DOC。
映画で言えばアルティメットやGIジョーなどなど。

また、リマスターやリメイクはもはや一種の賭けだ。
ただ基本そのままに解像度の向上やローディングの改善などをすればいいのに、そこで誰得追加シナリオやBGM改変などのオリジナリティを加えられるともう目が当てられない。何とは言わないけど。

私を含め、ファンから未だ根強い人気があるICO
ではこれの続編、あの島でのイコとヨルダのその後、なんてものが開発されようとしていたらファンは熱望するだろうか。

少なくとも私は「そんなものはいらない」と拒否する。
それこそまさに蛇足。
ICOという作品はあれで終わり。もういらない。
パッケージの裏に書いてあることがまさにその通り。

「胸を張って好きだと即答できるゲームだ。なのに、僕はこのゲームの続編を望んではいない。珍しい。好きだけれど、たくさんは要らない。これだけで十分だ」

これだけは言いたい

今はゲーム実況だったりゲーム系まとめサイトなんだりが数多くあって、特定のゲームに対する大衆の意見を簡単に見ることが可能な世の中だ。

そんなわけで、いわゆる「動画勢」と呼ばれるタイプの人間が増えざるを得ない環境になっている。
それらの連中に対して嫌悪感を抱いたり、敵意を持ったりすることはないが、しかし、やってもいないくせに偉そうに語る人間だけは許容できない。
批判はもとより賞賛ですらイラっと来る。

何知ったような口を叩いてるんだ、と。

本作を他人がプレイした動画で見たとしても、そこに感動はないと思う。
仮に感動したとしても、実際にやった時の感動に比べたら非常に軽いものなんじゃないかなと。
あー、こういうゲームなんだな、こういうオチなんだなと、単なる知識として脳に保管されるだけ。
最後に砂浜でヨルダと出会うというネタバレだけ記憶して、他は忘れるだろう。

私は、本作をやったうえでの情動はプレイヤーにしか絶対にわからないと断言する。

適度にカットされた動画では、どれだけイコがヨルダと手をつないで城内を歩き回り、襲い来る影と戦い、行動を共にしたかが全く伝わらない。

思い通りに進めないこともあった。
影にイラつかされることもあった。
ヨルダのしぐさに萌え(死語)たこともあった。
そして、確かに手をつないだ感覚があった。

だからこれだけは言いたい。本作は自分の手でやるべきだと。